ICRP Publication 109及び111の改訂の前に、福島第一原発事故に際して、日本政府がICRP勧告に従ったと称して行ったICRP勧告に反する数々の措置について、以下に指摘する事実関係を含めて検証し、ICRPの立場を明らかにし、今後同様なことがないよう批判的な声明を発すべきである。
日本政府は、(1)福島県内の小中学校及び高校の校庭の利用判断の目安の設定、(2)避難区域の設定及び解除と解除に伴う避難者への支援の打ち切り、に際して、ICRP勧告に従った措置としながら、「参考レベル」を設定せず、一般公衆の「線量限度」を事実上年20mSvに引き上げるなど、ICRP勧告における最適化や正当化の原則にも反する措置を行った。これが、一般公衆の余分な被ばくを引き起こし、また、地域や家族の分断を生じさせた。
日本政府及び日本政府や地方自治体のアドバイザーとなった専門家は、100mSv以下の被ばくによる健康影響はないことを強調し、一般にも宣伝し、20mSv基準を正当化した。LNTモデルについて、「科学的にもっともらしい」というICRPがこれを採用する意図を説明することはなく、「安全サイドに立った判断」にすぎず、科学的ではないかのように扱った。日本政府は、損害賠償訴訟においても、LNTモデルは「安全サイドに立った判断」にすぎないと主張し、ICRP勧告に反する姿勢をとっている。
日本政府は2011年4月19日に、「福島県内の学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について(通知)」(以下「暫定的考え方」)を発出した。
http://www.mext.go.jp/a_menu/saigaijohou/syousai/1305173.htm
この中で日本政府は、「国際放射線防護委員会(ICRP)のPublication109(緊急時被ばくの状況における公衆の防護のための助言)によれば,事故継続等の緊急時の状況における基準である20~100mSv/年を適用する地域と,事故収束後の基準である1~20mSv/年を適用する地域の併存を認めている。また,ICRPは,2007年勧告を踏まえ,本年3月21日に改めて『今回のような非常事態が収束した後の一般公衆における参考レベルとして,1~20mSv/年の範囲で考えることも可能』とする内容の声明を出している。」「このようなことから,幼児,児童及び生徒(以下,「児童生徒等」という。)が学校に通える地域においては,非常事態収束後の参考レベルの1-20mSv/年を学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的な目安とし,今後できる限り,児童生徒等の受ける線量を減らしていくことが適切であると考えられる。」としたうえで、「20mSv/年に到達する空間線量率は,屋外3.8μSv/時間,屋内(木造)1.52μSv/時間である。したがって,これを下回る学校では,児童生徒等が平常どおりの活動によって受ける線量が20mSv/年を超えることはないと考えられる。」とし、結論として「文部科学省による再調査により校庭・園庭で3.8μSv/時間未満の空間線量率が測定された学校については,校舎・校庭等を平常どおり利用して差し支えない。」などとしている。
「暫定的考え方」は、ICRP勧告にある現存時被ばく状況における参考レベルとして、年20mSvを目安としたと読める。しかし、ICRP勧告によれば、現存時被ばく状況の参考レベルは、1-20mSv/年の下方部分、すなわち10mSv以下で設定しなければならないはずであり、まずこの点で、ICRP勧告に反している。
さらに重要な問題は、年20mSvに相当する空間線量率未満であれば、「校舎・校庭等を平常どおり利用しても差し支えない」とし、年20mSvを事実上の安全基準としていることである。この時期、子どもたちの被ばくをできる限り低くするために合理的に達成できる有効な措置は、校庭の使用を制限することであった。「暫定的考え方」は、子どもたちに無用な被ばくを強いることとなったが、これは、「合理的に達成できる限り低く」との最適化の原則や正当化の原則にも反する措置であった。
実際に学校の現場では、年20mSvが安全基準として受け取られ、一部の学校を除き、校庭の使用が平常どおり行われた。子どもの被ばくを心配する親たちが、校庭を使う授業を休ませ、学校側や学校に従う親たちと対立することもあった。また、このような状況では、子どもを地元の学校に通わせることはできないと判断し、自主的に避難・移住を決断する親たちもあらわれ、それが、家庭内での意見対立を生むようなこともあった。
「暫定的考え方」を発出したのは、文部科学省の学校部門であるが、年20mSvの目安を決めたのは、文部科学省の科学技術・学術政策局である。科学技術・学術政策局は旧科学技術庁で、核燃料サイクルの研究・開発など、原子力政策を所掌にもつ部局である。2011年4月の上旬に、文部科学省から、当時の原子力安全委員会に対し、校庭の使用基準の設定について問合せがあったが、原子力安全委員会事務局は、ICRP勧告による「基準」は、年1mSvであり、この数値しかないと回答していた。当時、原子力安全委員会事務局はICRP Publication 109及び111を急ぎ翻訳し、文部科学省や経済産業省の担当者らに説明に走っていたが、「なかなか理解してもらえない」と述べていた。文部科学省の科学技術・学術政策局の担当者らは、参考レベルの考え方についても周知していたはずだが、最終的には、これに従う措置を行わなかった。
2011年4月30日、内閣府官房参与であった小佐古敏荘氏が辞任した。小佐古氏はICRPの委員を12年間務めた経歴があった。辞任会見で「この数値(校庭利用目安の年間20mSv)を、乳児・幼児・小学生にまで求めることは、学問上の見地からのみならず」「私は受け入れることができません。参与というかたちで政府の一員として容認しながら走っていったと取られたら私は学者として終わりです。それ以前に自分の子どもにそういう目に遭わせるかといったら絶対嫌です」と述べた。
2011年5月23日、子どもたちの被ばくを心配した福島県に住む親たち約70名が文部科学省の玄関前で文部科学省科学技術・学術政策局の次長らと交渉し。親たちは20mSv基準の撤回を求めた。文部科学省は、5月27日に「当面の対応について」を発出し、「今年度、学校内において受ける線量について、当面、年間1ミリシーベルト以下を目指すとともに、土壌に関する線量を下げる取組に対し、国として財政的な支援を行うこと」とした。年20mSvの目安が撤回されたのは、2011年8月になってからであった。
日本政府は、避難区域の設定に際し、年20mSvを基準とし、その根拠として、ICRP勧告の緊急時被ばく状況の参考レベルの範囲である20-100mSv/年の下限値を採用したとしている。日本政府は、ICRP勧告に従うと、避難基準はこの区間から採用しなければならないと説明するが、20-100mSv/年はあくまで、緊急時被ばく状況における参考レベルの範囲であり、避難基準ではない。
福島市渡利地区など、年20mSvを下回るが線量の高い地域において、住民らは、避難か残留かを選択でき、避難者と残留者の双方に賠償や行政による支援が行われる「選択的避難区域」の設定を求めたが、上記の理由で日本政府は拒否した。しかしICRP勧告の現存時被ばくの考え方において、被ばく防護措置の中に除染だけでなく避難も盛り込むことにより、十分に実現できたはずである。
年20mSvを超える可能性がある世帯を世帯ごとに指定する特定避難勧奨地点の設定に際し、福島県伊達市小国地区の住民らは、世帯ごとの指定では疑心暗鬼が生まれ、地域が分断されるとし、日本政府に対し、行政地区ごとの指定を要求したが、日本政府はこれを拒否した。ICRP勧告は、避難区域の設定に際し、住民などステークホルダーとの協議を要求するが、日本政府は、避難区域の設定についても、解除についても、住民への一方的な説明を行うだけで、協議を行うことはしなかった。この点でも、勧告に従った対応をとらなかった。地域や家族の分断が生じたのは、日本政府が住民との協議を怠り、一方的に対応したことに原因がある。「認知バイアス」などではない。
さらに問題なのは、日本政府が、避難指示解除を同じ年20mSvを基準に行い、しかも、それに伴い、賠償や住宅の提供など、避難者への支援の打ち切りを行ったことにある。日本政府は、年20mSvの避難指示解除基準について、避難指示の基準と同じであると説明するが、ICRP勧告にはこれを正当化する記載はない。
ICRP勧告に従った場合、放射線レベルが、年20mSv以下であることが確認された地域について、緊急時被ばく状況から現存時被ばく状況に移行したと宣言することが考えられるが、その場合は、10mSv以下で参考レベルを設定したうえで、被ばく防護措置がとられなけばならない。しかし日本政府によるそのような対応はなかった。
また、その場合でも、帰還するものは、希望者であり、かつ、帰還による被ばくが正当化される人に限られるはずである。しかし実際には、避難指示区域解除に伴う避難者への支援の打ち切りにより、避難継続が経済的に困難な人たちが、避難継続を強く希望する人や被ばくの影響が大きい子どもや乳幼児を含めて、帰還が半ば強制される形となり、余分な被ばくが強制されることになった。これは、ICRPの正当化や最適化の原則にも明らかに反する。
日本政府及び日本政府や地方自治体のアドバイザーとなった専門家らは、100mSv以下の被ばくによる健康影響はないことをさまざまな場面で強調し、一般にも宣伝した。例えば、首相官邸のサイトが設置した原子力災害専門家グループのページ
https://www.kantei.go.jp/saigai/senmonka_g16.html
において、長瀧重信氏(故人:長崎大学名誉教授)は、「100 mSv以下では、被ばくと発がんとの因果関係の証拠が得られないのです。このような科学的事実で国際的な合意を得られたものを発表する機関がUNSCEARですから、『疫学的には、100mSv以下の放射線の影響は認められない』という報告になるわけです。」と記し、「証拠が得られない」を「影響は認められない」と巧妙に言い換えている。
環境省が設置した「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」の報告書
https://www.cas.go.jp/jp/genpatsujiko/info/twg/111222a.pdf
には、「国際的な合意では、放射線による発がんのリスクは、100 ミリシーベルト以下の被ばく線量では、他の要因による発がんの影響によって隠れてしまうほど小さいため、放射線による発がんリスクの明らかな増加を証明することは難しいとされる。」とし、ここでも「証明が難しいこと」と「影響が小さいこと」を意図的に混同している。
同じ報告書は、しきい値なしの直線仮説であるLNT モデルについて、「科学的に証明された真実として受け入れられているのではなく、科学的な不確かさを補う観点から、公衆衛生上の安全サイドに立った判断として採用されている。」と説明している。
しかしICRPは基本勧告の中で 100 mSv未満の低線量放射線被ばくについて、LNT モデルが、科学的に証明されていないことを前提にしながらも、「科学的に合理的である」あるいは「科学的にもっともらしい」という理由で採用している。証明は難しいが科学的にもっともらしいモデルとして直線モデルとして採用し、その場合のリスクの程度を評価したうえで、一般公衆の線量限度を年1mSvと定めたのではなかったか。これについて、日本政府は、明らかに誤った説明をしている。損害賠償訴訟においても、LNTは「安全サイドに立った判断」にすぎないと主張し、ICRP勧告に反する姿勢をとっている。
この件について、日本のICRP委員を含め、ICRPの立場をきちんと説明する者が誰もいない。日本の委員の中には、原子力規制委員会の委員や原子力規制庁の職員など、日本政府の行ってきた措置について、批判的に指摘ができる、あるいは指摘しなければならない立場の人もいるが、一切指摘をしないのは異常にみえる。