私は原発事故を起こした福島第1原発から約55キロにある福島県伊達市の住民です。
伊達市で調査された個人被ばく線量計(ガラスバッチ)はほとんどの人が身に付けておらず、そのデータでかかれた論文は科学的データ及び論文には不適切です。
個人被ばく線量データの参考には十分に注意していただき原発事故被災地でのデータと言えども信ぴょう性に欠ける可能性があることを留意してください。
せめてicrp2007年勧告の
「低ければ低いほどよい」を是非踏襲してください。
次にご紹介します汚染地に暮らす住民からの声を是非読んでください。
「私たち家族は、自然環境の豊かな所で⼦供たちをのびのびと育てようと思い、今住んでいる伊達市に、⼟地を買い、家を建てて、福島市から移り住みました。住宅ローンを払い続けるのは⼤変でしたが、暮らしは質素ながらも、楽しく暮らしていました。
家を建てて8年経った2011年3⽉11⽇、福島第1原発事故が起き、私たち家族の⽣活は⼀変してしまいました。私と夫は42歳、息子は小学5年生、娘は小学3年生でした。
当時、私は、原発についても放射性物質についても、知識がありませんでした。何の教育もされていませんでした。少しでも知識があったならば避けられた被曝もあったのではないかと思うと、とても無念でなりません。経済的余裕がなく、⼦どもたちの持病や実家の両親のことを考えると、全てを捨てて家を離れる判断はできませんでした。
3⽉11⽇からライフラインが全てストップしてしまい、給⽔所に⼦どもたちと⼀緒に歩いていったり、買い出しでは外にずっと並んだりして時には⾬に打たれました。数⽇経ってもトイレの⽔も流れないので、⽔道が⽌まっていない市役所にトイレを借りに家族で出かけたことがありました。その時、⽩い防御服を着た集団が市役所に⼊ってきたのを見ました。私は津波被害に遭った⽅々を助けに⾏くのだろうと思いました。でも、今思うと、私たちは、そういう防護服を着なくてはいけないような汚染の中で、何も危険を知らされずに過ごしていたのではないでしょうか。
そんな時期に⼩学校では卒業式が⾏われることになり、私たちは歩いて⼩学校に向かいました。正しい情報が出されない状況で、防げたはずの被曝をしたと思います。当時、私は、本当にに危ないなら国は助けてくれるだろうと信じていました。あとで、原発事故直後の空間線量は毎時27マイクロシーベルト〜32マイクロシーベルト程度あったと聞きました。それなのに、外出制限も無かったということは⼤変問題です。
2011年6 ⽉に夫の実家で祖⺟の葬儀があり参列しました。親族なので、仕方なく、子どもも連れて⾏きました。夫の実家に⾏く道のりは⼤変線量が⾼く、⾞の中でも毎時1.5マイクロシーベルトを超える場所がありました。その道路は、線量が⾼くても騒がないようにと、地区の代表者から道沿いの住⺠は⾔われていたそうです。復興⾞両が通れなくなると困るからと聞きました。東北新幹線や東北⾃動⾞道も同じ理由で封鎖はできないという話も聞きました。
原発事故前の被曝限度を超えるレベルの空間線量なのにもかかわらず、放射線の危険性ではなく、安全性が周知されていました。被曝のリスクは私たちに伝えられませんでした。
2011年6⽉、息子が⿐⾎を⼤量にだしました。シーツが⾚く染まりました。市内の⼩学校で⿐⾎を出す児童が増えたということで、対処の仕⽅が学校の「保健だより」に載りました。
息⼦は、学校での⼼電図検査で異常が⾒られ、1⽇計器を体につけて測定したりして様⼦を⾒たこともありました。事故当時12歳だった息⼦はもともとアトピー性⽪膚炎を持っていましたが、事故後かなり悪化してしまい、⾼校1年⽣の春休みには⼊院しました。今でも、アトピーなのかよく分からない症状で苦しんでいます。
娘は、事故から1年経って右の⾜を痛がり、病院に⾏ったところ、⾻外⾻腫と診断され、次の年、切除⼿術を受けました。中学校1年⽣の冬から、娘は朝起きれない⽇が多くなりました。診断は起⽴性調節障害でした。体調を⼀番に考え、娘と話し合って週3⽇のフリースクールに通うことにしました。
夫の趣味は釣りでしたが、原発事故が起きて、海も川も⾏けなくなってしまいました。
わが家の庭では、原発事故前、花を植えたり家庭菜園をしたり、夏には⾃宅の庭にテントを張って⼦供たちと外で寝たりバーベキューをしたりしていました。しかし、今では⼀切そういったことができなくなりました。
放射能にひどく汚染された今の環境では、細胞のDNAは深刻なダメージを受けます。すでに受けた被曝のリスクは、今後どこに移り住んでも消えません。⼤⼈よりも影響が大きい⼦どもが被曝したと考えると、胸が張り裂けそうになります。あまりにも、親として、⼤⼈として、不甲斐ないですし、悔しいです。
福島第1原発の現状も心配です。地震など⾃然災害のチェックをして、福島第1原発の状況を確認するのが私の⽇課になりました。危険がわかったら、今度こそは避難しようと考えたからです。いつでも⼦どもたちのそばに⾏けるように、ある程度⾃由が効く仕事を選びました。フルタイムでの仕事はできなくなり、⽣活は苦しいままでしたが、いつでも動けることを優先しました。いろいろ調べると、政府や⾏政の発表は現実とは違うと感じるようになりました。
汚染されている⽣活環境ではなにをするにも外を出ることも、買い物も、⾷べる時も、⽔を飲むことさえ、常に⾃分でアンテナを張って判断をしなければなりません。そんな”普通ではない⽣活“を普通にしないと、⽣きていけないのです。何をやっても、⼼の底から楽しいことが無くなりました。
⾃宅の近くの通学路に毎時10マイクロシーベルトを超える汚染があることがわかり、役所に伝えましたが、取り除いてもらえませんでした。理由は仮置き場がない、ということでした。そのままにしておけず、私は⾃分で汚染土を取り除き、⾃宅の庭に保管しました。
伊達市は独⾃の除染の方針を作り、2011年の末には年間5ミリシーベルトという基準を決めました。市内には特定避難勧奨地点もあるほど汚染がひどいのに、7割のエリアで⾯的除染をしないことにされました。
私は、少しでも早く汚染を封じ込めたいと思い、⾃ら⾃宅の庭などを除染しました。伊達市では、住⺠が⾃ら除染をするよう、推進していました。私も庭を⾃分で除染しました。汚染土は⼟嚢袋144袋になりました。次の年もまた除染をしました。
平成26年3月までに除染して閉じ込めた汚染⼟は、2年間⾃宅庭に保管後、仮置き場に移動してもらいましたが、その後に除染して集めた汚染⼟は引き取ってもらえず今も庭にあります。なので、庭には⼊りたくありません。
⾃宅のカーポート前の汚染は、5年前で52万ベクレル/kgにのぼり、毎時5マイクロシーベルトありましたが、それでも除染対象にはなりませんでした。除染対象地は宅地のみで、屋根も⾬樋も除染対象ではありません。汚染がある可能性がある天窓は開けられなくなりました。
伊達市は、全住⺠を対象に、健康管理と称し、個⼈線量計を配布しました。そして、内部被ばく検査を実施して、被曝のデータを集め、住⺠に許可なく、そのデータを外部の研究者に提供して、論⽂を書かせました。その論⽂は、不正に入手した個⼈情報をもとに分析したもので、データの改ざんも疑われるものでした。そもそも、⼤半の住⺠は、個⼈被ばく線量計をちゃんと装着せずに生活していたので、装着を前提に論文を書いても意味がないのです。このようなズサンなデータをもとに、論⽂は、空間線量が毎時0.6〜1マイクロシーベルト以上でも個⼈被曝線量は年間1ミリシーベルトにはならない、除染をしても効果はない、と決めつけてしまいました。これは、被曝を過⼩評価するものであり、住民にとっては⼈権侵害以外の何者でもありません。この問題は、今も追及を続けています。
同じ地区の⽅が⽩⾎病になられたり、今まであまり聞いたことのない胆管癌が何⼈も発症したりしています。事故前とは何か違うと思わざるをえません。
今も「原⼦⼒緊急事態宣⾔」が出されたままなのにもかかわらず、その異常事態が私たちの「⽇常」になっています。このまま、住⺠の⼈権を無視した「復興」が進められ、異常な⽣活が「普通」だということにされてしまいそうで、不安です。私たちの生活は、切り捨てられたままです。
この苦しみは、これからも続きます。」
以上
このような現地の現状もあることを是非共有してください。